益田市の歴史(概略)
益田での人々の暮らしは、匹見で発掘された遺跡からうかがえるように、石器時代から始まっているようである。その後の時代の安富王子台古墳、大元古墳群、スクモ塚古墳、小丸山古墳、鵜ノ鼻古墳…等、縄文・弥生時代の遺跡もから当時の生活が伺える。
都で大化の改新が起こったしばらく後、柿本人麿が石見の国府として赴任し、当地で多くの和歌を詠み、その後の文化形成にも多大な影響を与えた。
その後の万寿三年の大津波により、人丸社は流失し、新しい社が高津の松崎に建立され、江戸時代に現在の高地に移された。また、この万寿の大津波により鴨島が水没したと伝えられる。また、この時代、都茂鉱山(美都町都茂)では銅が発見され、朝廷からの調査が行われた。
鎌倉時代、源頼朝が征夷大将軍となった頃、石見国司であった御神本兼高が益田に移り、益田氏と改氏したことにより、益田に益田氏が誕生した。この時代の遺跡である中須東原・西原遺跡の出土品からもうかがえるが、益田氏は、活発な貿易等で財を築き、一時は見島(現在の萩市)も領有した。また、益田氏は文化の繁栄にも力を注ぎ、15代 兼堯は画聖 雪舟を益田に招き、自画像を描かせた。この画は現在、益田市立雪舟の郷記念館において収蔵し、期間限定で公開している。益田氏は、その後、関ヶ原での敗戦により須佐に移り、萩藩の栄代家老として尽くした。
江戸時代の益田は、津和野藩と浜田藩により分断された状態となり、このことは現代でも様々な場面で影響を与えている。幕末に起きた多田扇原関門での戦いは、政府軍による幕府軍征伐の突破口となり、近代日本の夜明けを迎えることなった。
明治に入ると、島根県が設置され、明治22年には町村制が施行された。郵便や電話事務が開始され、小学校や技芸学校が開校した。美都町出身の秦佐八郎博士がドイツで梅毒の特効薬サルバルサンを発見したのもこの時代である。
大正時代には、島根県立益田農林学校が開校し、同じ頃、益田駅が開業した。
昭和16年、益田・吉田・高津の合併により石見町を設置。昭和18年には、石見町を益田町に改めた。この年、石見全域に及ぶ水害が発生した。昭和27年に周辺の各村を合併して益田市が誕生し、昭和34年には益田市庁舎が竣工した。昭和38年には記録的な豪雪となり、これにより過疎化が進行することとなった。また、昭和47年、58年の大水害での被害は甚大であった。
昭和後期、高等学校の開校や、赤十字病院の移転改築、益田運動公園の整備、県民会館開館、万葉公園の開設等、都市機能の整備が進み、国体開催により経済的な発展となった。
平成5年、石見空港の開港により高速交通が整備され、人とモノの流れに変化が生まれた。平成16年の「平成の大合併」により益田市・美都町・匹見町が合併し、現在の益田市が誕生した。
今後の益田市は、産業・自然・文化・食、有する資源を活用し発展を目指す。